今回は、

プロレスラー・総合格闘家として活躍し、

PRIDEとRIZINで統括本部長を務めた、

高田延彦についてご紹介します!

 

の総合格闘技時代の実力や全盛期、

前田日明との不仲の噂についても、

書いていこうと思います!

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高田延彦のwiki的プロフィール

引用:https://www.instagram.com/p/BfxiwFNl9UV/

 

名前:高田延彦(たかだのぶひこ)

本名:高田延彦

異名:平成の格闘王、青春のエスペランサー、アイ・アム・プロレスラー

生年月日:1962年4月12日

年齢:57歳

血液型:?型

出身:神奈川県横浜市泉区

身長:183cm

体重:100kg

階級:ヘビー級

スタイル:サウスポー

所属:高田道場

インスタグラム:@takada_nobuhiko

ツイッター:@takada_nobuhiko

ブログ:http://www.takadanobuhiko.com/

 

高田延彦の経歴

引用:https://www.instagram.com/p/Bs5qARin9lK/

 

高田延彦はアントニオ猪木に憧れ、

1980年に新日本プロレスへ入団します。

その後、前田日明と共にUWFに参戦しますが、

分裂しUWFインターナショナルを設立します。

1997年に総合格闘技団体PRIDEの設立に携わったのをきっかけに、

自身もPRIDEに参戦し、

35歳での総合格闘技デビューをしますが、

ヒクソングレイシーに2連敗し、

その後もミルコ・クロコップや、

イゴール・ボブチャンチンをはじめとした強豪選手と対戦し、

PRIDEを盛り上げますが、

目立った戦績は残せないまま引退しました。

 

引退後はPRIDE統括本部長を努め、

2015年にはRIZIN統括本部長にも就任しました。

 

高田延彦の戦績と獲得タイトル

 

戦績

11試合 3勝 6敗 2分 0KO勝利

獲得タイトル

なし

(2019年6月10日現在)

 

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高田延彦は弱い?総合格闘技での強さは?

引用:https://www.instagram.com/p/ByYsZo5hp9i/

 

高田延彦の総合格闘家としての戦績は、

11戦 3勝 6敗 2引き分け

と、決して強いと言える戦績ではありません。

 

PRIDE開始時期に、

当時格闘技ファンの間に存在していたプロレスラー最強幻想を背負って、

総合格闘技のリングに参戦しましたが、

結果はデビュー戦で、

ヒクソン・グレイシーに敗北。

のちに再戦も果たしますが再度敗北します。

 

その後もマーク・ケアー、

ホイス・グレイシー、

イゴール・ボブチャンチン、

ミルコ・クロコップ、

マイク・ベルナルドなどと戦いますが、

消極的な戦い方で敗北、

引き分けを繰り返します。

 

次第にメインイベンターの座からも遠のく事になりました。

これはプロレスファンの深い失望を招き、

高田延彦はバッシングされる事になります。

ですが高田延彦はまだ当時の総合格闘技黎明期とも言える、

まだ日本において総合格闘技での戦い方が

確立されていない時期にプロレスから参戦し、

対戦したのも当時の強豪選手ばかりでしたした。

プロレスラーが総合格闘技に参戦して成功した事例も殆ないので、

これは仕方が無いのかもしれません。

 

結果はふるいませんでしたが、

高田延彦は当時誰もが恐れるような

ミルコやボブチャンチンらを恐れる事なく対戦を指名、

もしくは快諾しました。

その勇気は素晴らしいですね!

 

全盛期はプロレスラー時代??

引用:https://www.instagram.com/p/ByRLUJeh41o/

 

高田延彦はアスリートの肉体的な全盛期であろう18歳から30歳はプロレスラーでした。

高田延彦が総合格闘家としてのキャリアをスタートさせたのも、

35歳の時でした。

 

現在は科学的なトレーニングや、

栄養管理の発達によって、

UFCなどではで30代後半の強豪選手も珍しくはありませんが、

当時は現在に比べて選手寿命が短い傾向にありましたし、

何と言っても高田延彦は総合格闘技という競技に取り組み始めた時は既に35歳だったので、

全盛期がその前のプロレスラー時代だったとしても不思議ではありませんね!

 

30を超えてから総合格闘技の練習を始めたので、

20代の頃から総合格闘技の練習をしていれば、

結果は少し代わったのかもしれません。

 

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高田延彦は前田日明と不仲?その理由とは?

引用:https://www.instagram.com/p/BQsU8g2jmGh/

 

前田日明は元プロレスラーで、

総合格闘技団体のリングスを立ち上げた

日本格闘技イベントの第一人者として知られています。

現在は、

リングス系列で地下格闘技団体の『THE OUTSEDER(ジ・アウトサイダー)』を主催しています。

 

高田延彦と前田日明は不仲が噂されていますが、

高田延彦は前田日明についてあまり言及していません。

 

対する前田日明は何度か高田延彦について語っています。

それによると、

高田延彦と前田日明は共にUWFという団体に所属していましたが、

UWFは解散し、

新たにUWFインターナショナルが高田延彦によって創設されます。

前田日明によるとUWFインターナショナルの創設は、

UWFが経理面でのトラブルを抱え存続が危うい際に、

前田日明が新団体設立のため資金や協力者集めのに奔走している時に、

高田延彦は前田日明を置いて1人で新団体UWFインターナショナルの設立をしてしまったようです。

 

つまり、

高田延彦は前田日明やUWFを裏切る様な形で新団体を設立した。

このように前田日明は受け取っているようです。

 

そしてその後、

高田延彦が1998年に行ったPRIDEでの

ヒクソングレイシーとの再戦は、

元々前田日明が高田延彦に

「お前が負けたから次は俺がやる」と宣言し、

前田日明が戦う予定で話もまとまっていたらしいですが、

結局は高田延彦が再びヒクソンと戦いました。

前田日明はこれを、

高田延彦によって試合がさらわれた

と考えているようです。

 

またUWF解散後、

UWFインターナショナルを設立した高田延彦に対し、

前田日明はリングスという団体を設立しますが、

リングスの選手をPRIDEに多数引き抜かれたようです。

PRIDEチャンピオンとして有名なエメリヤーエンコヒョードルなんかも

元々はリングスの選手でしたね。

 

以上のような様々な理由で、

高田延彦と前田日明は不仲のようです。

前田日明の話を聞く限りでは、

『高田延彦の勝手な行動に前田日明が愛想を尽かした』

という様に見えますが、

これは前田日明サイドの話です。

この件について高田延彦はあまり語っていないので、

実際の所は高田延彦サイドからの話を聞いてみないと分かりませんね。

 

高田延彦 まとめ

 

いかがでしたでしょうか?

今回は、日本の総合格闘技黎明期を語る上で重要な存在ですが、

選手として以外にも、

統括本部長としての顔も持つ高田延彦。

今回はその高田延彦の歴史の前半部分である、

選手時代についての話や出来事について書いてみました!

当時はやはり格闘技激動の時代で、

プロレスから総合格闘技へと移行してきた高田延彦には様々なトラブルや困難があったようですね!

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